#2


 またも彼には裏切られた。
 昨日ぼくはたしかに彼に名前を名乗ったはずなのに、一夜明けた朝顔を合わすと、彼はいつもの冷ややかな表情で抑揚のない声で言った。

「おはようございます、若様」

 屋敷の中での呼び方を学んだのか、セバスチャンはぼくを若様と呼ぶようになった。

「おはよう、セバスチャン」

 苦虫を噛み潰したような顔になったとしても、仕方が無い。
 彼の目に見えるほどの、しかし小さな拒絶や裏切りがなにやらやけに悔しかった。



 ぼくは久しぶりの一人の時間を過ごしていた。
 近頃はセバスチャンもだんだんと仕事を任せられるようになってきて、あまり顔を合わすことも無くなっていた。
 ほんの少しの寂しさを感じ、しかし彼はぼくのことなどどうとも思っていないだろうと思い当たりそう感じる自分に微かな憤りと焦りを感じた。

 考え事をしながらいつの間にか中庭に出ていた。
 なんだか動きを止めることさえも億劫で、とぼとぼと歩いているといきなり目の前に壁が現れた。
「わぶっ」
 ぱふっと顔で突っ込んでしまった壁は柔らかく暖かで、爽やかな香りが鼻につく。
「ん?」
「おや?」
 顔を上げた先には微かに驚いた顔の見知った男がぼくを見下ろしていた。
「なんだユーゼフ・・」
「やあ、」
 どうやらぼくはユーゼフの腹に顔をぶつけてしまったようだ。ぼくはたいして痛みを感じてもいない鼻を撫でながらユーゼフから離れた。
「目の前が疎かになるほど一体何を考えながら歩いていたんだい?」
 ユーゼフは笑いながらぼくの鼻を撫で、聞いてきた。
「別に。何も考えて無かったよ」
 少しむくれながらのぼくの返答にユーゼフはおやおや、と笑い今度はぼくの頭を撫でてきた。
 子供扱いなユーゼフの態度に少し不愉快に思ったがそれも仕方が無い、彼はぼくが赤ん坊からの知り合いでその頃からぼくを猫可愛がっている。(ぼくは可愛がられていたとはあまりにも思えないが)ユーゼフに対して思うところは多々あるが(不老な外見とか・・)、それをいま蒸し返してみても意味はない。
「まったく君はへんなところで子供だねえ。」
「へんなとこってなんだよ。ぼくは12だ正真正銘子供だ!」
「ああ、そうだった。君はまだ12だったね。しかし、子供にしては難しい顔をしているじゃないか。一体何に頭を悩ませていたんだい?」
「別に・・・」
 ユーゼフの水のような透き通った青の瞳を見つめながら、ぼくはもう一人の青い瞳・・深いしかし清い海の底の青を思い出していた。黒い前髪から覗くセバスチャンの瞳。深いその静かな色は、しかしぼくの心をすこしだけ騒がせる。
「おや、僕と話しているというのに一体誰のことを考えているんだい?」
 一見優しそうに見える眼差しがぼくをまるで射るように見つめる。
「口説き文句みたいなこと子供相手に言うなよ。」
「そうだね、あと数年してから言うことにしよう。そういえば、屋敷に新しい住人が増えたみたいだね。少年だと聞いたけど」
 数年ってなんだ。
「ああ。セバスチャンね」
「今は君の父親に言われて君の側に置かれているようだけど、どうだい?」
「どうだと聞かれてもね・・」
 ぼくはここ数日のセバスチャンの姿や言葉を思い浮かべてみようとしたが、しかしそのバリエーションはとても少なく、無表情かしかめた顔で話す言葉は一言二言ばかりだ。
「あまり、芳しくない」
 一気に下降したぼくの機嫌にユーゼフぱちりと瞬きする。何がおかしいって言うんだ。
「おや、君は人付き合いの得意な方だったよね」
「まあ、自分でいうのもどうかと思うけど、そんなに嫌われるような性格してないはずだけど・・・なんか拒絶されてるみたいなんだよねえ」
 大きくため息をつき、これから続くであろう日々を思うと憂鬱にならずにいられない。
 そんな様子のぼくを見てユーゼフは労わるように笑い、ふうと息を吐きながら屋敷の窓を見上げた。
「まあぼくはあまり気に病まなくてもいいと思うけどね」
 ユーゼフは屈み、目線をぼくの目に合わせ頬の横の髪を柔らかく弄んだ。
「どういうことさ」
 何もかもわかったようなユーゼフの言葉がほんのすこし恨めしかった。大人な人間の笑み。何もかも、自分に見えないものを知っている笑みをみるといつもむかむかする。

「まあ、そのうちわかるよ。」



「ごめんなさいね、セバスチャン」
 前を歩くメイドの女が言った。
 肩にふわりと付く柔らかな栗色の髪をセバスチャンは不思議な気持ちで見つめていた。
 彼女は両手で抱えるように大きな籠いっぱいの洗濯物を抱えている。
 先程彼女に呼び止められたセバスチャンもこんもりと盛られた洗濯物を抱えていた。
 ほとんどが白いシーツで、時々顔の近くに感じるふわりとした感触や石鹸やぽかぽかとした陽の香りになんとなく気が和んだ。

 今日はまだ一度しか顔を見ていない。

 セバスチャンは自分が使える幼い少年の容貌を脳裏に描いた。
 小さく華奢な造りの、まるで愛玩人形のようなつぶらな目。意志の強そうな吊りあがった眉。瞳以外は全てが小振りな少年。
 生まれた頃から人の上に立つ事を定められて育てられた故か歳の割りにしっかりとした意思を持つ、外見以上に強い少年。
 自分で考えてみても接しにくいであろうセバスチャンに笑顔で接し、いつの間にかそばにいる。

 包むような存在、柔らかで、真っ白い。
 なんだかこのシーツみたいだ。

 セバスチャンは自分のやや的を射た考えに口角を上げる。

「どう、セバスチャン。このお屋敷に慣れたかしら?」
「はい。みんな良くしてくれていますから」
「坊ちゃんとはどう?ちょっとやんちゃで時々困ってるでしょ?」
 楽しげな声が問いかける。
 たしかに、あの自分の主人はすこし世間ズレした騒ぎ方をする。
 特にあの不気味な少女ヘイヂと二人揃うと目も当てられない。彼らが過ぎ去った後はまるで爆心地かと目眩を感じる時がある。
「少し、あと片づけが大変ですね。」
 セバスチャンの返答にメイドはまた笑い、彼を横目で見つめた。
「あなた少し柔らかくなったわね。坊ちゃんのおかげかしら?」
 柔らかい?
「目が、最初にお屋敷に来た頃と少し違うわ。私初めて見たときに貴方のその瞳の色、まるで凍った海のような色だと思ったのよ?」
 セバスチャンはほんの少し眉をひそめた。それは本人を前にして言うことだろうか?
 この屋敷に訪れた直後から思っていたが、ここにいる人々は少し他の者よりも気安い感じがする。上に立つ主人のノリの所為なのか、雇われた下の人間達とまるで家族の様に笑い合っている。
 彼の息子もそうだ。
 身元も知らされていないだろう突然現れたセバスチャンを、まるで疑いもせず笑みを浮かべ自分の側にするりと入り込む。

「でも、今は違うわね」

 メイドの声に、はと意識を彼女に戻した。
「なんだか、まだ暖かとか言わないわ。でもなにか兆しの見えた瞳をしている。坊ちゃんといる時のあなたの瞳、まるで朝陽を待つ湖面のような静かな青をしているのよ。」
「まるで若様と居ると本当に瞳の色が変わるような言い方ですね」
「変わるわ。みんな笑ってしまうのよ。」
 メイドのはきはきとした声を聞いて、セバスチャンは彼女の後姿を見つめた。二十代半ばの彼女はしっかりとした姿勢で立ち、光を放つように笑っていた。

「あら?」
 窓の外を見つめた彼女が声を上げた。
「ユーゼフ様だわ」
「ユーゼフ様?」
 窓に駆け寄り、庭を眺め下ろした。
 緑の木陰に、微かに眩い金髪が輝いているのが窺えた。
 そして、彼の隣りにはセバスチャンが仕えている幼い主人の姿が。
「お向かいにのお屋敷の当主様よ。」
 ユーゼフと言う名の男性は楽しげに笑い、少年を見下ろして何か話している風だ。セバスチャンから見えない少年の顔色をしっかりと見ることが出来るのだろう。
 ふと、彼がこちらを見上げた・・・様な気がした。一瞬見えた透明な青の瞳、整った大人の美貌。

目が合った?

「坊ちゃんを幼い頃から知っているらしくて、よく遊びに来るのよ」
 彼女の説明を聞きながら、セバスチャンは庭の彼らの様子を見下ろした。目が、放せないのだ。なぜか。

 ユーゼフが屈んだ。
 少年の髪を優しくくすぐるのが見えた。

 だから、なんだ。

 自分以外の誰が彼に触れようとも、それに何に心を動かされろというのか。
 自分は凍りついたままでいいのだ。


 
    2007.5.9
     ユーゼフ登場。
     正直、セバデー小説でないような気がしてしまう・・・
     進展の無い話・・・。


novel