夜会




 ひたひたと裸足の足が床を歩く音が小さく聞こえる。  通り過ぎる窓の外は宵闇ばかりで、街灯の光も見えない。
 ぼくはその一つの窓にゆっくりと近寄って、そっと手をつく。ひんやりとした、つるりとした感触が心地よくて、ぼくはしばらくその心地を楽しんだ。
 硝子に映るぼくの姿はなんだか滑稽だ。
 寝乱れくしゃくしゃになった髪は額や頬や首や、ふわふわと擽った。
 ぼくはここから、進んでいい?
 それとも引き返した方がいい?

 つやつやの黒髪を撫でるのが好き。
 すべすべの肌の質感も。
 射る暗闇の夜道のような、微かな街灯の光も含んだあの瞳だって、嘗め取りたいほどに愛くるしい。

 彼が好きだ。

 まるで狂っている。


 自分の動悸が耳の奥でドクドクと聞こえている。

 ぼくはそのまま硝子の冷ややかな感触を楽しんだ後、一切断ち切り陰に隠れるように後ずさったあとに、胸を高鳴らせ焦がれる部屋へと走り出す。

 ひたひたと足音を立てて辿り着いたドアに、ぼくは小さくノックする。
 深夜遅い時間ではあるけど、まだ彼が起きているのだろうか。ぼくが立ち尽くす足元に、ドアの隙間からはみ出すオレンジの光が微かに揺ら揺ら光っている。

「セバスチャン?」
 きぃっと微かな音を立てて、しかし細心の注意を。
 無断でゆっくりと入室したセバスチャンの私室は物静かだ。
 ゆらりと揺れるランプの灯り以外、今は何も主張していない。意を決して訪れたというのに、がらんとしたこの部屋の佇まいにぼくは肩を落とした。
「どういうことさ・・・」

 辺りを見回した後、ぼくはセバスチャンの寝室に向った。
 しかし、整えられたベッドはも抜けの空で、シーツはぴしりと整えられたままだった。
「・・・・んー?本当にどういうこと?」
「なにがどういうことなんですか?」
「えっ?」
 気配もなくいきなり聞こえたセバスチャンの声に、ぼくは振り向こうとする。しかし、その動きはセバスチャンの後ろからの拘束に阻まれてしまう。
「勝手に人の部屋で何をしていたんですか?旦那様」
 背後から首筋に埋められたセバスチャンのさらりとした黒髪が頬や首筋を擽ってこそばゆい。しかし微かに体を揺らすことも出来なかった。
 優しく包む拘束はしかしぼくの全てを阻むもので、微かに荒んだセバスチャンの声が耳朶に触れていた。
「こんな時間まで、何をやってたの?」
「・・・・・。仕事ですよ」
 一瞬の間の空いたセバスチャンの掠れた声を聞きながら、ぼくはゆっくりとその背のセバスチャンに体重を移していく。
 ”仕事”とは、一体どんな類のものなのか。
 こんな深夜に、忍んで行うもの。

「お疲れ様、セバスチャン・・・」
 ぼくはゆっくりとそう呟き、ぼくを掴むセバスチャンの大きな手に自分の手を優しく這わす。
「・・・・・・。」
 セバスチャンはゆっくりと片手を僕の頭に移動して、乱れた髪を撫でつけ整えてくれる。
 視界の端っこに、ゆっくりとその陰が動くのが見える。
 心地よいその感触にやんわりとした睡魔が訪れるが、しかし微かな意識の奥底がそれを厭う。
 ぼくは何も言わずに、あまり大きくない動きでそっと体ごと振り向く。
 離れようとした動きではないことを察したのか、今度は阻まれることはなく真っすぐ目前にセバスチャンと目をあわせることが出来る。
 疲れているせいか少し憔悴して見えるさえない表情のセバスチャンは、しかし柔らかく笑いぼくに口付けてくる。
 最初軽い音を立てたキスは緩やかに深まり、息をつく暇が無い。
「セ、セバスチャン?」
 途切れた合間に、不安げに声をかけてみるけれど返答は無く、彼の唇は僕の頬など肌を滑った。
「ねえ、セバスチャン?」
 再度呼びかけた声に、セバスチャンゆっくりと埋めていた顔を上げ、軽く頬に口付けを落とした後ぼくから一歩引いた。いきなりぽっかりと空いた隙間にぼくは一瞬にして酷いほどの物足りなさを感じてしまう。
 ほんの少し触れただけでも、こみ上げてくる貪欲なほどの愛しさに身震いしてしまう。
「申し訳ありません」
 沈んだ声色のセバスチャンの声が部屋に響いた。謝る必要なんか無い、そう呟こうとした時にはセバスチャンはぼくに背を向けていて、「少し頭を冷やしてきます」と言葉を投げてきた。
「・・・・・・。」
 途惑うばかりだ。
 でもここで、彼を逃してしまったら。もうこの手で本当の意味でセバスチャンに触れることが出来なくなってしまうのかもしれない。そんな微かな恐れは水に落ちた一滴のインクの様に、じわじわ胸を侵食していく。
「セバスチャン!」
 恐れを振るおうと呼んだ声は、思いの他大きく部屋に響いた。
「ぼく、セバスチャンのいれてくれた紅茶が飲みたいんだ!そう。喉が渇いてたまらないんだよね!セバスチャンもそうでしょ?出先からこんな時間に帰ってきたんだもん、お茶でもして一息つきたいと思わない!?」
 滑り落ちるように言葉を吐き、ぼくは僕の言葉に立ち止まったセバスチャンの背中をじっと見つめた。
 背が高くすっとしたセバスチャンの後姿が小さなランプの乏しい光に照らされ浮かび上がるようだ。
 ぼくの視線を感じたのか、セバスチャンはゆっくりと振り向き「わかりました」と頷き部屋を出たかと思うと数分した後にすぐにまた部屋に戻ってきた。
 ぼくはその間に小さなテーブルにつき、片手のお盆の上に湯気を立てるポットと二組のカップを乗せやってきたセバスチャンを視界から零してなるかという心持ちで見つめていた。
「それで、なぜこんな時刻にここに?」
 ぼくのに差し出されたカップには砂糖を三個、セバスチャンはまっさらストレートの紅茶の入ったカップを自分に。
 言葉と共に向けられた深い青の目にぼくは悲しいほどにこれほどかと胸が高鳴るのを感じた。
「ちょっと、眠れなくてね。顔を見たくてたまらなくなっちゃったんだ・・・」
 まさか居ないとは思わなかったけど・・・そう心の中で呟いてぼくは向き合って座っているセバスチャンを見つめた。
 少し落ち着いたのか、先ほどの疲れの色は微かだ。いつもの涼しげな顔に戻っている。
 静かな表情に、自分だけが焦れて焦がされていることが少し腹立たしい。

 ぼくはゆっくりと手を伸ばした。
 額にかかる前髪をゆっくりと退けてやる。
 しかしそれはさらりと指を滑りまたはらりと目元に触れた。

「ねえ、愛しているんだ。」

「もっと、触れてもいい?」



 乏しい、しかし爛々と灯るランプの明かりにセバスチャンが金色に照らし出されている。
 美しい鼻梁が濃い影を落とし、彼はゆっくりと呼吸していた。
 綺麗な、人。

 金色に照らされたセバスチャンを見て、ぼくも同じように彼の目に映っていればいい・・そう思った。

 そして、ぼくは優しく、
 セバスチャンの艶やかな前髪をかき上げ、ゆっくりとその額に口付けを落とした。



2007.8.19
これといった内容はないけど、ただたんに発情しているという話。




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