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 深い深い海の底に、私は隠れるように住み着いていた。
 忌まわしきこの身を隠すように漆黒の布を身にまとい、意図無く調合した毒薬の入った瓶に囲まれ生活している。


 孤独の似合う私は、まるで女と見紛う容貌をして居るらしく、遠目に私を見た者たちは私のことを海に住む魔女と呼ぶようになった。



 とある日、私の元に一人の少女が尋ねてきた。
 少女の姿に私は思考が止まる。
 なんと言う美しさ。なんと言う可愛らしさ。
 傷一つない滑やかな白い肌、海上から差し込む日の光に輝くような青い瞳。愛らしいピンクの唇。ゆっくりと波打つ美しい長い髪。
 華奢な上半身に、魚の尾の下半身。
 美しいその尾の鱗が一枚一枚艶やかに滑らかにまるで虹の様に輝く。

 私はその少女がかつて見た赤ん坊であることに気付く。
 あれは一体どれほどの過去のことか。異常な力を持つ私は、遮るものを通り抜け遠くを見る力も持っていた。
 何の気まぐれか、私はその日慌ただしい海の雰囲気に疑念を持ち、その中心、海を統べる王城のある街を見たのだ。
 輝かしく活気溢れるその街はお祭り騒ぎ。
 色とりどりの珊瑚や磯巾着、海星が飾られ、カラフルな小魚が泳ぎ回り柔らかな海月が光を放つ。
 街に住む人魚達の老若男女が笑顔に満ち、城を見上げた。

 城のテラスにはこの海の偉大な王が、そしてその家族が居る。
 王の腕の中には、可愛らしい赤ん坊がすやすやと。
 そうか、今日は新しい王族の御披露目の日だったのかと私は気付き、その赤ん坊をようく見つめた。
 小さな小さな赤ん坊は綺麗な光色の髪をしていて、その尾は王族にも稀に見る虹の光彩の鱗をしていた。
 私はその美しさに目を奪われ、そのすばらしき虹の神々しさに涙さえ滲んだのだ。




 私の目の前に居るのは、その赤ん坊だ。
 美しい虹の鱗はあの頃と変わらず美しく輝き、この薄暗い洞窟の闇にも翳りを見せない。
 人魚の姫は美しく年頃に育ち、甘い声で私に挨拶の言葉を投げかけた。
 ああ。
 その美しい音。
 その姿、その声色。全てが極上で、私は一瞬で姫の全てに魅入ってしまった。恋を、したのだ。

「ここは海の奥のそのまた奥の暗い底。一体なんの御用?人魚姫?」

 私はわざと耳障りな割れた声で話しかけ、姫のおびえた様子を観察した。

 美しい眉をひそめ、姫は目を伏せ言いよどむ様に口元に手を寄せる。
 姫の美しい瞳が私を向いたことで私はたまらず声を出した。

「ああ、いい。言わずとも良いです。私に分からぬことがあるとお思いで?姫。貴方は恋をしている。それも海の住人ではない、陸の王子に恋をしておいで。」
「なぜ、そのことを?」
「私を誰と?海に住む誰もに恐れられ迫害され、こんな底に住んでいるのは何故だか姫もご存知のはず。知っているからこそ私を訪ねたのでしょう?」
 姫が小さく頷く。恋を指摘された姫は白い頬を淡く赤に染め、私はそれを見てこの身が百や千にも裂かれた心になった。胸が締め付けられたように激痛に微かに喘いだ。

「それで姫?何が御望み?」
 私は分かっていながら聞く。
「・・・・・。」
 姫は黙り込み、視線が泳ぐ。
 私は姫を見つめた。微かな音も響かぬ海のそこで、私達二人の心音だけがトクトクと奏でているような心境に陥る。姫の麗しい姿を焼き付けるように眺め、その音に耳を澄ました。
 姫は決意が付かないのか迷うように視線を泳がしたままだ。その姿にさえ、報われぬ想いを抱いてしまった私は酔いしれそうになってしまう。

「人間になるための薬をください。」

 姫は言った。

「人間に恋してしまったんです。私はあの方にもう一目会いたいのです。しかし、この身であの方に会うわけには・・・。」

 ああ、ああ、私は死にそうになる。姫の恋に染まったその心内を聞くたびに、体のどこか見えないところから、鮮血が勢い良く吹き出すようだ。
 私は朦朧とし、深く呼吸した。
 
「では、姫。これを貴方に差し上げよう。」

 私はすいと片手を動かし、棚の奥深くから小さな小瓶を微かな潮の動きでこちらに移動させた。

「これは・・・」

 姫が小瓶の中の緑に輝く液体を凝視する。

「お分かりでしょう。これは人魚を人間の体に作り変える薬。」
 私の言葉に姫は微かに瞳を輝かせる。その表情にも私は情けなくも胸をときめかせてしまう。
 姫が手を伸ばすが私は小瓶を遠ざける。
「姫、気を急がせてはダメ。」

「ねえ、姫。貴方は何の代償もなしに全てを手におさめることが出来るとでも?」
「何が、お望みで?」
 姫は私を見上げました。かすかな恐れをちらつかせる瞳の揺らめきに心を打たれてしまう。
「私が欲しいのは・・・」

 私を見つめる揺れる瞳に思わず私は姫に手を伸ばし、その滑らかな白い喉に触れた。

「私が欲しいのは、貴方の声。貴方の歌声はこの海一等のものと聞き及んでおります。」
「こ、え?そんな、」
「姫、」
 私は諭すような声で話しを続けました。

「私達は、お互い欲しているものを持っている。」
「この声を貴方に差し出せば、私はその薬を貰えるのですか?」
 姫は潤む瞳で私をじっと見つめます。
「私は人間になって、あの方とまた会うことが出来るのですね!?」

「でも、姫。よく考えて。貴方が声を失くして人間になったとして、その人間は如何して貴方に惹かれてくれるでしょうか?」

「身元も分からず、喋ることの出来ない貴方がその人間に会うことすら難しい。彼には愛すべき女性がすでに居るのかもしれない。居ないとしても、全てが闇に包まれた貴方に何を想ってくれるのか・・・。海に居なさい。そうすれば、貴方は苦しみなど味わうことも無く安らかに日々を暮らせることでしょう」
 私の言葉を、姫は一言も発することなく聞き入るように目を細めました。
 姫のその、物静かな美しい瞳。

「それに、これは万能ではない。この薬をもってしても、貴方が完璧な人間で居られる時は限られるでしょう。もしこの薬の効力が切れたとき、貴方がどうなるのかは私にもわからないのです。」



「この声を・・・あなたに・・・。私を人間にしてください。」
 姫は何故か、ふわりと笑い私を見つめ、手を取る。
「その前に、最後に歌わせてください。」
「ええ。」
 私は溜息をつき、瞳を細めて美しい姫を見つめた。
 優しく笑み、しかし悲しげに。瞳にかすかな涙の気配を感じ、私は自分の心を引き裂くような痛みを感じ。
 姫は優しく自分の喉を撫でた。
 私は白魚のような細く美しい指が辿る様を息を詰め見つめていた。



 深い海

 水の底

 海の世界に 水の世界に

 響く光


 海の輝かしい栄光の麗しい愛娘。
 彼女が涙を流しながら唄う歌は、かすかな悲しさと狂おしさ、喜びと切なさと、恋しさ。
 若々しい姫が唄うその歌を聴きながら、私はその切なさに涙を流した。



 おゆきなさい。


 かすかな硝子のすれる音を立てながら私は小さな瓶を開いた。
 潮の流れを借りて、緑の粒子が姫を包む。

 麗しい歌声はいまだ反響を繰り返し。

 瞬きをした私が次に見た姿は、愛らしい裸体の人間の女だった。

 姫、いや姫であった美しい人間の少女は、泡を吹きながらのたうち回った。
 人間である彼女は海の中で自由に動き回ることができない。しかもここは深い、どこまでも深い暗い底。
 美しい瞳も、海水が沁みるのか瞼を強く下ろしている。しかめた表情さえ美しい。

 私は彼女を優しく抱いた。柔らかな白い布で彼女の細い体を隠し、空気の泡を作り出し彼女の体をその中に寝かす。
 愚かな姫。今はただの少女。
 恋に狂い、彼女は地位も、家族も、ふるさとも。何もかも手放した。自分の身さえも変えてしまい。
 若い少女は、実らぬ恋のために全てを捨てて、遙か海の上に向かってしまう。
 悲しむ者達は多いだろう。

 あの、海の輝かしい栄光、海の王も。


 美しい歌声に送られ、私は少女を抱きながら暗い洞窟を出た。ただただ海上を目指し浮上する。
 黒い闇のような私に抱かれ、まるで輝かしい少女は愛しい人間の住む陸に打ち上げられた。
 優しく少女を砂浜に横たえる。
 顎や頬に絡みつく光色の髪を優しい手つきで退ける。

「あなたは、愚かだ」
 私は呟き、滑らかな額を撫でた。

「しかし、」
 美しいのだ。
 光を湛えたような彼女が、恋をし、より一層の艶を生み。彼女は夢を恋を懐き輝かしく育まれる。


 私はまだ昏々と眠ったままの少女を抱えたまま、砂浜の片隅の岩場で夜が明けるのを待った。
 だんだんと淡く変色する空を見上げて、ちらりと輝くものが遠くにあるのがわかった。
 目を凝らしてよく見ると、それは日の光を浴び反射した王城の屋根の尖端のようだった。

「姫、貴方はきっと、この朝日が三度覗くころ人ではいられなくなるでしょう。しかし、貴方があの人間の王子とともにお互いが一つでありたいと望めば・・・・」
 私は言葉を区切り、まだ眠り続ける少女を見つめた。時間が経ち乾いた髪が風にふわりと揺れている。
「自分と、愛する人の心を信じなさい。それは、奇跡を生むかもしれない」
 私には信じられなかったものを、貴方が信じられれば。私が得ることのできなかったものを貴方こそが得られるかもしれない。
 光の髪を持つ、存在こそが貴方は私の光。
 嘗ての私は、その光を見出すことも無く、触れようともできなかった私は。

 深く思考の渦が私を飲み込もうとするころ、小さな活気が耳に届いてきた。

 私は少女を砂浜のなるべく目立つ場所に横たえた。

「さようなら、姫。」

 そして姫はこの世からその姿を消した。


 暗い海の底のさらに闇の底のような私によく馴染んだ洞窟に、私は一人で帰ってきた。
 しばらくして海は悲しい喧騒を上げる。
 美しい姫が消えた。

 深い海の底、大勢の人々の前で王は悲しげに首を振った。

 姫はもう、海には帰らない。
 私も、彼も、痛いほどにそれを知っていた。


 おわり 


昔から馴染みのある童話、人魚姫をモチーフに書いて見ました。
普通にしたら面白くないし、イメージの悪い魔女(女ではない)を主人公にしてまあなんとなくこんな感じーと書いてみたらなんてじめじめした話に・・・・・!
主人公の陰気さにこんな男が現実に居るとしたちょっとイライラしそうだな・・・・・。と思いました☆(ひでえ
反面、人魚姫は輝かしい美少女にしてこれこそまさに主人公でしょう!とな感じに。
ついでに海の王様はちょっと渋めのプチマッチョがよろしいかと!

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