海の中か。
 そう思いシズは辺りを見回した。
 白む向こうは果てしなく暖かい青が広がり、足を付いた地はさらさらとこぼれるような柔らかな乳白色の砂だった。

 海の中だろう。
 どこまでもどこまでも、揺れる青にシズはそう思い、無意識で自分が何事もなく呼吸を繰り返していることに気付かなかった。

 ざざん・・・と遠くから波の音が耳の奥で響いている気がする。
 まるでぽっかりとあいたその空間に立たされていることにシズは我に返り、しょうがないと辺りを散策してみることにした。
 いくら歩いても、歩いても、果てしなく続く。いつまで経っても果てにも底にも付く気配がない。
 身体的な疲労をなぜか感じなかったが、しかし精神的にはそれを感じ、内心なんともうんざりだ。
 身振りしても衣擦れの音さえしない、ざざん・・・とどこからか聞こえる波打つ音だけが全てだった。

 どうすればいいのだろうかと悩む隙も与えずに、潮騒は小さく響き、シズはただただ歩き続けた。


「ねえ、」


 どのくらい時間が経っただろうか、もしかしたら数日しかし数分かもしれない。
 変化は柔らかな青年の呼びかけと共に訪れた。

「君、どこに行くの?」

 シズの目の前に現れたのは声と同じ、やはり柔らかな印象の青年だった。
 揺ら揺ら揺れる青のなか、しかし金茶の艶やかな髪の美しさは損なわない。さらさら軽く頬を滑っていた。額に巻いた赤い鉢巻がやけに印象的で、そして青いまるで海のような瞳との微かなズレがシズに違和感を、しかし安心感をもたらした。

「貴方は・・・・?」
「僕はシリス。」
「シリス・・・・。」

 黄水晶を名乗る青年は確かに、その髪や肌の象牙のような色がそうと感じさせる。水晶のように透明な印象を持たせた。
「僕はシズといいます。」
 シズも名乗り、にっこりと笑ってみた。

「ねえ、君はどこかに急いでいるの?」
「いいえ。」
 シズは首を振り考える。
「まだ道を探していた最中なんです。ここは知らないところだから。」

「なら、僕の住まいに寄らない?」
「え?」
「・・・。ダメかな?」
「そんなことありません!」
 行き先がやっと見つかった。シズは喜び笑い是非にと大きな声で了承した。

「じゃあ、付いてきてね。」

 シズは自分よりもやや背の高いシリスの背を数歩後ろから追いかけた。
 ゆっくり歩く背中は姿勢が良く、後ろで見ていて清々しいものだった。ゆったりと揺れる赤い鉢巻を見て、青の中にこの映える程の赤はなんて異質で美しいのだろうと考えながら歩いていた。

 辿り着いたのはなんの変哲もない、常識的な規模の二階立ての家だった。
 ゆったりこの広がる空間にしてはなんとも普通で、しかし違和感はなんとも簡単に消え去ってしまう。
 ああこの彼ならきっとこんな感じ。
 しっくりとしたものを感じ、シズはシリスの後を追い促され扉を潜り抜けた。
 質素な、しかしいたって寂しさや物足りなさなどを感じさせない適度な広さの部屋に、シズは通された。
「お茶をどうぞ」
 笑ってシリスが入れた紅茶の注がれたカップを受け取り、ゆっくりと口につける。
 しっとりとした湯気が顔を擽り、微かな爽やかな味のする温かい紅茶にほっと息をつく。
「おいしい。」
「よかった・・・!」
 嬉しそうなシリスの声にまた笑い、シズは安らぐ思考を感じた。

 しばらく言葉少なにお茶を楽しんだ後、シズは人心地ついて今度はシリスを見つめた。
 この誰も居ない場所で、彼はたった一人で暮らしているのだろうか。
「ねえ、シリスはここに暮らしだして長いの?」
「そうだね、もう、数え切れないほどの時間をここで過ごしているよ」
 目を伏せ、しかし寂しさを感じさせない穏やかな笑みをシリスは浮かべる。
「寂しくない?」
「寂しくないさ!ここに居るのは僕だけではないんだ」
「え?」
 小さく驚くシズをシリスは楽しげに見つめる。

「そろそろ姿を見せるはずなんだ・・・」
 そう言って窓を覗くシリスの目線の方から、青い陰が近づいてくる。
「あ・・・」

 羽ばたき、窓の桟に降り立ったものは晴れ晴れしいほどのまるで新鮮な青の鳥だった。
「やあ、お帰り。」
 嬉しそうにシリスが笑い、手を差し出すとその青い鳥は一声鳴いてその手に飛び移る。
「飼ってるんですか?」
 シズの問いに、シリスは一瞬きょとん・・としたような顔をするが静かに首を振る。
「そんなんじゃなくて・・・・ただ、一緒にいるだけなんだ。」
 笑ったその顔は、なぜ微かな切なさを孕んでいるのか。細められた青い瞳を見つめシズは一瞬沈黙する。

「貴方はずっとここに一人でいるんですか?」

 シズのその質問にシリスは一瞬瞠目する。そして切なげに、こみ上げるように少し口元を歪め笑みながらこくりと頷いた。
「僕は、ずっとここにいる。そう決めたんだ。そうであるべきなんだ。それしか選べないんだ・・・」
「いったい・・・?」
 でもね、そう言ってシズの言葉を小さく遮った。
 シリスは傍らの青い鳥を見つめる。
「彼に、空を飛ばせてやりたいんだ。でもここから空はとても遠いから・・・。君が連れて行ってくれると助かる。」
「でも、この鳥がいなくなったら貴方が寂しくなるんじゃない?」
 シズの言葉に、シリスは穏やかに否定する。
「大丈夫だよ。いつかこんな日は来るのだろうともうずっと前から考えていたし、それにここはそんなに寂しい場所じゃない。多くが僕を支えてくれるんだよ」

 そう言いながら、シリスは鳥の首を優しく撫でてやる。鳥もまるで惜しむかのようにシリスの頬を突っついたり、金茶の髪をくちばしで撫でてやる。

「精一杯、飛んでおいで。大事な友達と共にね」

 そう鳥に語りかけ、シリスはその眩しいほどの晴れ晴れしい青い羽に身を包んだ鳥をシズの肩に乗せてやる。
「彼を、よろしくね」
 にっこりと笑って言う。
 もうその顔に、未練や切なさなど見当たらず、やはり穏やかに笑んでいるだけだった。

「じゃあ、そろそろ行こうか。」
 シズは肩に大人しくおさまる青い鳥に話しかけた。
 近くで凝視すると、この鳥は枯れ草色の目をしているのが分かった。
 少し警戒心を持った、そして好奇心に瞬いている目がシズを見返す。


 家の外までシリスに送られ、また遠くまで続く青を見ながら歩く。
 行き先はやはり曖昧で、しかしとにかく空へと続く場所へ向うという朧げな目的地ができた。

 青い鳥はやはり大人しくシズの肩に止まっている。

「彼は、本当に寂しくないのかなあ?君がいなくなって本当に独りぼっちになってしまったんじゃない?」
 話しかけるシズに、一声綺麗な声で鳥が鳴いた。

 そうだと言ったのか、違うといったのか。

 ざわわん・・・・・

 相変わらずの波のざわめきに、小さく混じる人の気配に気付いた。
 その頃にはシリスの家はかなり遠くに、しかしまだ彼がこちらを見ている様子が分かった。

 笑う声、話す声。
 足音や人波のざわめき。

 か細い、些細な。しかし確かな存在をやっと感じ、ちらちら視界を誰かが過ぎる。


 シズは目を凝らし、シリスを振り返った。
 また鳥が啼く。

 シリスの傍に、黒い影が立っていた。シリスより上背のある男が、ふうわりマントを靡かせシリスの傍を過ぎっていく。


 ここは。

 行き交う人々、彼らを感じ穏やかなシリス。


 シズは込み上げるものを抑えきれずに、微笑みを浮かべまた前を見据えた。
 じゃり、と踏み締めるさらさらの砂の音を聞く。

「空は、どの辺かな」

 そう言って真上をじっと見つめる。
 この青の遥か上に、それとも見据えた遠く彼方に、あの晴れ晴れしい青空が広がっているのだろうか。
 また一歩踏み出したシズの耳元で、まるで出発の一声かと青い鳥が甲高く鳴いた。

 枯れ草のつやつやとした瞳は、シズを、ただ見つめていた。空を探す彼を希望の瞳で。

 じゃり・・・と砂がなる。



 眩しい青に驚き、シズは瞬きを繰り返した。
「・・・・?」
 視界の上のほうでさわさわ木陰が揺れ、寄りかかっていた幹からずるりと落ちたのかシズは地面に仰向けになっていた。
 白い雲の流れが速い、青空が一瞬目に沁みた。
「シズ?」
 ずいっと視界に入った見知った顔は。
「テッド・・・」
「お前やっと起きたのか!?もうグレミオさん達休憩は終わりだって言ってるぞ?」
 そう言ってくるりとテッドは背を向き、「いくぞー!」と元気良く言って小高い丘を登っていく。
 シズもゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをする。変な姿勢で眠っていたせいか関節がやや軋み音がする。

「坊ちゃん〜〜」
 グレミオの呼ぶ声に、目を向ける。
 彼らの少し手前に、登るテッドの後姿が揺れていた。
 眩しいほどの彼の青い衣がゆらゆら揺れている。
 丘を、空の方向へ登っていく。

「今、行くから!!!」

 急かされるものを感じる。
 しかし、その青を見て。

 まるで、満足げに。
 どこかで鳥が啼いた。



2007.7.16 end




novel -after another-