三章 追憶の少年
ウッドロウ、フィリアと、スタンの許に訪れたのはスタンとルーティが再開を果たしてから三日目のことだった。
スタンから見れば、ウッドロウとフィリアはルーティ以上に大人びて見えた。否、彼らはあの頃から自分よりもずっと大人だった。だから今自分の目の前に居る二人は自分以上にきっと正常なのだろう。
二人はルーティと同じくあの頃の戦いのときと同じ装備をしていた。
これを装備するのも久しぶりだとウッドロウは照れくさそうに笑ったが、その防具は手入れが良く行き届いている。きっと今でもそれを磨いているのはウッドロウ自身なのだろう。
王だろうがなんだろうが、彼らの本質は時が経っても変わらぬままだった。
スタンはその頃のものを、何処だか分からないほどの奥底に放り投げるかのように仕舞いこんでいるのに。
自分だけは幼いままだとスタンは辟易する。
気分はただただ下降する一方だった。
「御久しぶりです。スタンさん。」
ウッドロウより一足先にスタンの許にたどり着いたフィリアがにこやかに挨拶をしてくる。
艶のある緑の髪はあの頃のように大きなみつあみにしてあり、フィリアが何か動くたびにそれはふわふわ動き、甘い花の香りをもたらした。
「久しぶり、フィリア。会えて嬉しいよ」
スタンはフィリアのほうを向きいつものあのにこやかな顔で言う。
フィリアは一瞬スタンの言葉に戸惑ったように、困ったように笑った。
その笑みが意味するものをスタンは瞬時に悟ることが出来た。
きっと、それはこういうことなんだろう。
なぜ、自分たちから貴方は逃げたのか。
それはウッドロウも同じだった。
否、スタンと再開できたことにウッドロウは心の其処から喜び、輝くほどの笑みをスタンに向け、そして二人はまるで生き別れになった兄弟がやっとの思いで再開したときのようにしっかりと抱き合った。
それはスタンにとっても本心で。
しかし、腕を放し目を合わしあったとき、その瞳は語っていた。
どうして、一人で行ってしまったのか。
二人のその瞳の言葉を察したとき、やはりスタンは笑うのだが、それはとても力弱くそして表面的にはひどくあっさりとした笑みを浮かべるのだ。
それを見た彼らはただやるせなさを募らせるだけなのだが。
あの時無かった高い壁が、それとも奈落に続くかもしれない不明瞭な溝が、彼らの間に出現してしまったのだ。
それは仕方が無いことなのだと思っている。
彼らはわかっていた。
スタンの心が、否、その存在全てが、誰にも聞こえないが誰にでも悟らせてしまうほどの、血の吐くように悲痛で何もかも枯らすほどの悲鳴を上げ続けていたことを。
それは、自分たちと死に物狂いで世界を駆け巡っていたあのときから。
やはり全ての始まりは、あの少年、リオンの悲劇的な裏切りと死が幕開けだった。
あの頃もう、彼に残っていたのはかけらだけ。
彼らが眠ったままのリオンと引き逢わされたのはその日の夕方のことだった。
赤い日が窓から差し込む中、昏々と眠り続ける美貌の少年を彼らは一瞬息を詰め凝視していた。
狭い簡素な部屋の中。
決して質の良いとは言えないベッドに寝かされ眠っているリオンはその部屋に不似合いなほどその場所だけに神々しいとさえ言えるほどのオーラを作り出していた。
本当に生きているのかどうかと疑いたくなるほど、眠る少年は身じろぎもせず、その寝息さえもとてもかすかなものだった。
「本当に、彼が帰ってきたのか・・・」
沈黙の中、はじめに声を発したのは年長者のウッドロウだった。
重苦しい雰囲気の中、その響きのいい低い美声が朗々と響いた。
「ねえ、まさかこの子このままずっと眠っているってことは無いでしょうね?」
ルーティが鬼気迫るかのごとく、しかし微かな声で呟いた。
「ありえることかもしれません・・・。一度死んでしまったリオンさんが、今ここに居る、と言う普通で考えればありえないことが起こっています。もし、なにか、私たちに計り知れない力がリオンさんを死の淵から掬い上げたとして、その力が一体何なのか、私には諮りかねません。その何か底知れない力が、一体どこまで及ぶことが出来るのか」
フィリアがそのつぶらな瞳を伏せ、不思議な瞬きと翳りが生まれる。
それは部屋全体に浸透し、不思議な響きを持つフィリアの声に他三人は何も言わずに耳を傾ける。
しかし彼らの目は、昏々と眠り続けるリオンの美麗な寝顔を見つめていた。
「その力がリオンさんの命を救い出せたとしても、リオンさんを目覚めさせ、生前とまったくおなじように過ごせるまでに力を及ばすことが出来るのか・・・私には何とも言えませんわ」
また一瞬の沈黙。
いつの間にか日は沈み、青紫の空がリオンの向こうにある窓に広がる。
夕暮れと夜の狭間の独特とした寒々しい雰囲気が部屋の中に充満する。
スタンは泣きそうな瞳でリオンの白い横顔を見つめた。自分の無力さに嫌気が差したように、両の拳を下げたまま力をこめ握りこむ。
「すぐ、起きるわよ。ここまでこの子は帰ってこれたのよ?」
強い黒い瞳のルーティが力強く、そして慈しむような不思議な声色で言う。
「あんたのところにあの子が帰って来たってことは、その先も、あるはずだわ。」
ルーティは隣で立ち尽くすスタンを見上げる。
スタンもルーティを見つめる。しかしその青い瞳は彼女とは正反対に恐怖に潤んでいるように見える。それは部屋の暗さのせいだけではないのだろう。顔色もひどく青ざめている。
恐怖を感じているのだ。
それはリオンの目覚めのことだけではなく、彼女らとの再会でもなく、何か漠然としない姿を現さない、変な靄のようなものだ。自分の恐怖の対象が分からないことにさえまた恐怖する。
「あんたの許に来たというなら、それはあんたにしか出来ないことがあることでしょ。あの子を、リオンを起こしてやれるのは、あんただけなのよ、スタン・・・」
不思議な瞳だ、とスタンは思う。
優しい、母のような瞳。
今ここにいるルーティは、自分のかつての戦友としてのルーティなのか、それともリオンの姉としてのルーティなのかもしれない。
とにかく彼女は、彼らの平穏な幸せを願ってしまうのだ。
それしか出来ないと、ルーティだけでなくフィリアとウッドロウも分かっている。理解している。自分たちに出来ることは微々たることしかないのだ。
スタンが自分たちの中で一番戸惑っていることを知っている。喜ぶこと以外の、何か不思議と苦しくて苦々しい感情を抱いているのだ。
それはもしかしたら、眠り続けているリオンも然りなのかもしれない。
二人は、かつてのあのときから戸惑っている様子だった。
彼らは自分たちとは違う心の絆を確かに生み出していて、それにひどく感情を荒々しく揺さぶられていた。戸惑い、答えを出すことが出来なかったのだ。
なら、今ならどうなのだろう。
時計の針は深夜を指していた。
ルーティたちには村にある宿屋で休んでもらっている。
スタンの家には三人が眠るためのスペースも寝台も無いためだ。
しかしスタンは彼らと同行することはせずに、リオンが眠る部屋の中においてある長椅子に毛布に包まって夜を過ごすことにした。
しかしスタンになかなか睡魔は訪れずに、ただじっと毛布の中から目だけをのぞかせ眠り続けるリオンを見つめていた。
夕方のルーティの言葉が頭の中をぐるぐると巡り続ける。
リオンを、目覚めさせることを出来るのは、スタン自身なのかもしれないと、言っていた。
そんなの無理だ・・・と、スタンは顔をしかめる。
自分はまだ恐いのだ。
ルーティ、フィリア、ウッドロウは姿を隠したスタンをあの頃のように暖かく優しく受け入れてくれた。否、ほんの少しの戸惑いはあっただろうけど。
リオンは、きっと違う。
きっとあの頃の片鱗も無いふ抜けた自分を見たら憤怒するだろう。怒り狂ってそして泣きながらスタンをめちゃくちゃに詰り、軽蔑したように見るのだろうか。
それが恐い。
全てを失ったと思い込んで、何もかも捨てたと信じ込んで、こんなところにまで逃げつづけた自分をリオンはきっと許してくれない。
それらは全て自分の手に帰ってきた。
いつの間にか、それらは自分の許に居たのだ。
だからどうしろと言う。
結局全てを捨てることも拾い上げることも取り返すことさえも出来ない自分に一体何の権利があるというんだろう。
「俺に出来ることなんて、もう、本当は何一つ無いんだよ。」
静かな独白が、夜の空気にしみこんでいく。
何一つ、この手には触れてはいけないんだ。
ベッドの横に立ち、スタンは上半身を屈め、眠るリオンの頬に触れる。
このまま、またどこかに消えてしまいたい。逃げてしまいたい。
弱い自分がまた喋りだす。いや、これは叫んでる。
スタンはぎゅっと手を握りしめ、その震えは浸透してく。
弱いままでいたい。でもそのままではいけない気がする。
いまは、この目の前にある、自分よりも幼いくせに幼さを捨てた寝顔をまた見つけてしまった。
願っても、いいのだろうか?
ゆっくりと、上体を屈めてゆく。
金の絹のような前髪から覗く青い瞳に鋭利な寝顔がだんだんと写される。
望んでも、いい?
声を出さずに呟き、少年を見つめるための青い瞳を瞼に隠しそっと近づく。
少年の頬や額などを金の髪がくすぐり、唇には温もりを与える。
触れたそれはスタンの心を冷やりと震わし、一度離れた彼の表情を戸惑いに強張らせる。
彼は、リオンはあのころもっと暖かかった。あの温もりは何処に行った?
何故逃がした、あの感触と温もりは、あの頃、まるで死に物狂いで精神を焼切らせるかのようにせわしなく、まるで追われるかのように生活する中で、たった一つの安らぎだったのに。
彼に触れてもらえることが嬉しくて、彼のぬくもりを感じることにとても安心して幸せを感じていて・・・。
なぜそれがここにはないんだろう。
リオンの体は今ここに帰ってきているというのに、その心は、魂は、まだ自分の許に帰ってきてはくれないのだろうか?
死に物狂いでキスをする。
それはあの頃も同じだったのだけれど、この今感じる全ての空回ったような喪失感は、自分の中の飢餓を触発させるだけなのかもしれない。